バイマンスリーワーズ
Bimonthly Words
損すれば得 得すれば損
「聖域なき構造改革」を旗印とする小泉政権の本格的な改革が始まりました。
バブル経済崩壊以後、何度も議論されながらどの宰相も実行できなかった不良債権処理も漸次、進められていくでしょう。本来ならば数年前から着手されるべきだった不良債権処理は、先送りされ続けたためにそのウミは溜まりに溜まっています。
そのウミを出そうというのが今回の措置。ウミと同時に不要なものも排出されていきます。つまり、企業の倒産はこれから本格化するのです。
銀行と微妙な関係が続き、資金繰りに窮している企業は一挙に窮地に追い込まれるでしょう。企業を対象とする事業は債権回収、与信問題がより深刻になってきます。
一般消費者を対象とする事業にも大きな影響がでます。民間シンクタンクの発表では不良債権処理により130万人もの失業者が発生するとしており、消費はこれまで以上に低迷を続けると思われます。
まだまだ迷走を続ける日本経済。最重要課題の経済復興のためには、靖国神社問題に端を発した近隣諸国との問題、特殊法人問題、対米・対ロシア問題等々が複雑に絡みあっています。
さて、これらの問題に対する小泉政権の政策は正しいのでしょうか。はたまた、97年の橋本政権のようにまったく間違った方向へ政治誘導が行われているのでしょうか。
実のところわかりません。正しいか否かの結論は現段階では“わからない”のです。
指導者の判断が正しいか否か、が判明するのはずっと後になります。つまり、歴史が証明することになるのです。
私達は政治家ではありませんし、政治力をあてにした経営はいずれ土台から崩れていくことを知っています。しかし、政治による社会環境の変化が企業に与える影響は計り知れず、今ほど政治と経済が密接に関連し、切り離しては考えられない時代はありません。
ともあれ、やっと指導者らしい指導者が国家の宰相になったわけで、小泉首相がどんな政策を、何を基準に判断し、私達の企業経営にどのような影響があるのか、を注意深く見守る必要があります。
判断をしない指示待ち族は「責任転嫁型」の人間になる
企業が成長、進化する過程にはいくつかの扉があって、経営者が思い切ってその扉を一つずつ開けなければ道は開けません。
なんといっても経営者や管理者がいかにして権限委譲という扉を開けるか、が分かれ道になります。
権限委譲という問題は多くの中小企業が抱えています。トップの意図を充分に理解した人が権限と責任を持って職務にあたれば、市場に対する働きが強力になり、業績に大きく反映されます。権限委譲は家業的な企業が真の企業に脱皮するためのカギといえるでしょう。
トップに強烈なリーダーシップがあれば、社員100人ぐらいまでなら権限の委譲をせずに独裁的に運営することができるでしょう。しかし、独裁型の運営はすぐ壁にぶつかります。
何故、独裁的運営が壁にぶつかるのか。それは人が育たないからです。技術者や実務作業者は育つようでも、指導者は育ちません。権限のない指導者は形だけのものですから結局、技術者や作業者もすぐに頭を打つわけです。
企業が脱皮する上でカギを握る「権限」とはいったい何なのでしょう。
権限とは詰まるところ、「判断すること」ではないでしょうか。実行に移す最終判断をすれば、おのずと判断をした後に起こる事柄の一切について全体責任を感じます。ですから権限を行使するには、あらゆる角度から検討を加えた判断が求められるわけです。先を必死に読もうと情報に精通し、さまざまな角度から検討できるような学習を積むことになるのです。この訓練を繰り返すことで判断の精度も上がっていくのです。
人は判断をしなければ与えられた職務を遂行するだけの「指示待ち人間」になっていきます。それは心をもたないロボットのようです。まして、上司の判断で動いた結果、失敗でもしたら「私が判断したことではありません!」と、失敗責任を転嫁する人間を知らず知らずの間に作っているのです。
判断をさせない限り人は育たないのです。
「敬天愛人」を判断基準とした西郷隆盛
部下や後継者とはいくつになっても頼りなく映るもので、権限を委譲して判断を委ねるには相当な勇気がいります。危なっかしくて見ておられない、それなら自分で判断するほうが安心だ、といった心境の読者も少なくないでしょう。
ところがやっぱり意思決定をしなければ力はつきません。実践を知らないスポーツ選手のようなもので、失敗判断と小さな成功判断を繰り返すことが、リーダーとしての鍛錬になるのです。
人の上に立つ人間を鍛えるには、まず自分で判断し、次に自分で行動し、そして自分で反省する、ことです。この判断、行動、反省のサイクルを繰り返すことでリーダーとしての力がつくのです。
まだ権限をもち得ない場合は、ことある度に、自分だったらどう判断し、どう行動するか、結果についてどう反省するか、という模擬実験を自分の頭の中で繰り返せばいいのです。
そこで、最も難しいのが判断基準の問題。何を基準に判断させればよいのか、この人物は何を判断基準にしているのかを見きわめておきたいものです。
人が判断する時の基準にはいくつかの段階があります。
まず「好き嫌い」という判断基準。人間らしくていいが、あまりにも自分本位で稚拙です。どうも某外務大臣の言動の中にこの「好き嫌い」の判断軸が作用しているようで、そこにもう一皮むける必要性を感じます。好き嫌いで判断しがちな人物は、まだ幼児性の性格が残っているので、充分な経験と教育が必要でしょう。
次なる判断基準が「損か得か」です。商売に長けた人は大抵、この損得が判断基準になります。計算高い商売人は「それは損やで!」とすぐに答えを出します。「損して得取れ!」とも言いますが、これもやっぱり損得が判断基準の根本にあります。
損得を判断基準にすると、どうなのでしょうか。
小泉首相の父親である純也氏は鹿児島県の出身。つまり小泉首相には薩摩隼人の血が流れているわけです。薩摩隼人の代表的人物といえば明治維新の立役者の一人、西郷隆盛でしょう。
西郷は常に天下国家のことを考えて道理を守り、同時に民衆への思いやりの心を忘れなかった政治家でした。そうした姿勢を西郷自身「敬天愛人」という言葉で表現しています。
西郷の残した言葉のうち、次の『生財』という文章からその人柄を知ることができます。
「徳に励む者には、財は求めなくても生じる。したがって、世の人が損と呼ぶものは損ではなく、得と呼ぶものは得ではない。いにしえの聖人は、民を恵み、与えることを得とみて、民から取ることを損とみた。今は、まるで反対だ」
「善か悪か」を判断基準に
一般に損と思われることはじつは得になるのであって、得と思われるのは損である、というのが西郷の見解です。こちらが得をすれば誰かが損をする。その誰かが損を取り戻そうとして、得をした人から取り戻そうとする。そこに醜い争いが生じて結局は損をする、といったところでしょうか。
「敬天愛人」を信条とする西郷らしい発想です。
「誰もが得をする」ことはなく、また「誰もが損をする」ということもあり得ません。自分だけが得をしようと考えても、いずれ抵抗勢力が表われます。損得を判断基準に置くと、どうしても得を追いかけるために長い目でみると損をすることになるのです。
民事再生法という中小企業に都合のよさそうな法律が昨年から施行されましたが、経営者は損得を判断基準においてこの方法を選択していないでしょうか。
デフレが進む中、安いから、という理由だけで取引先を決め、まだ安くなるだろう、という判断から購入を遅らせるのもいかがなものか。また、高いから品質もいいだろうと思い込むのもおかしい。
「損得」が考えの中心にあるとどうもおかしな判断になるように思えてなりません。
損得でなく、まして好き嫌いでもない、最も好ましい判断基準は何なのか。
それは、やはり「善か悪か」になります。
善とは自分と相手だけではなく、周りの人にも配慮された道徳にかなった分別のことです。分別とは理性で物事の善悪・道理を区別してわきまえることであって、損得で判断することではありません。
商売に「善悪」なんて青臭いと思われる方もあるでしょう。
ところが、「商売人」を目指している人なら“儲けてなんぼや”という価値観でいいでしょうが、多くの社員を抱え、企業の存続と発展をはかる「経営者」を目指すならば、もう一段高い判断基準が必要です。それが「善か悪か」ではないでしょうか。経営者も人間ですから、好き嫌いもあろうし、損得の計算ができなければ事業はできません。
しかし、最終的には「善か悪か」で判断しなければならないことがあるのです。
日本の危機を憂い、真剣に日本を良くしようと考えている政治家はほんの一握りでしょう。
ハンセン病問題では官僚が用意した筋書きを退け、国としての控訴が断念されました。判断を下した小泉首相の奥底にあったのは、ハンセン病患者として差別され続けた弱者救済の「善」か、参院選前のパフォーマンスである「損得」なのか、議論は尽きないでしょう。
社会問題というのはとかく権力者の判断ミスから生じます。靖国神社参拝問題は日程の前倒しという選択で乗り切ったが問題はより根深いものとなり、特殊法人の廃止・民営化問題も大詰めになってきました。
薩摩隼人の血を受け継ぐなら「敬天愛人」の精神が今後の小泉首相の打ち出す政策に影響があるのか、宰相としての判断軸は何か? スポットを当てて注目したいと思います。
